「世界中の人が自分の寝袋を持つ」 松木正さん第5回インタビュー

 

サバイバル・プライオリティ

1:シェルター

2:水

3:火

4:食料

 

 

もしサバイバルの状況に陥ったときに、まず一番最初に手に入れないといけないもの、重要な価値のあるものは、実はシェルター。これが一番。二番は水。三番が火。四番目が食料。

この順番でたぶん手に入れたらいいし、大切やと思う、生き残るためには。

 

シェルターがあるだけで、体温が温存されるし、まずパニックにならへん。

だから、キャンプのときでも、自分らが最初にすることは、おおきなタープを張ること。

 

大きなシェルターをつくることで、みんながその下にはいることができる。雨がふっても大丈夫やし、風も止めてくれるような、おおきなタープ、シェルターをつくる。それがあるだけで、ものごとを落ち着いて考えることができる。いろんな作業、ぬれずにできるやんか。体温が温存された状況で。

一番死ななくて、一番冷静でいれるよね。それやっぱりシェルターが一番大事やと思うのよね。

 

2番目の水はおそらく、日本にいるときやったら、割と簡単に手に入ると思うんや。すぐ給水車も来るしさ。場合によっては、ポリタンクや、浄水器が必要かもしれんけど、日本はそんなに乾いている土地じゃないから、水を手に入れる方法は、そんなにむずかしくないと思う。

 

でも脱水には気をつけなくてはいけない。それと、自分が住んでいる場所の一番近くの水源は知っておく必要はある。どこに湧水があるのかをね。

 

シェルター、水、の後の三番目の火、これを扱えるかどうか、これは人類である所以のことやろ。

火をちゃんと扱えることと、シェルターをいかに扱えるようになるか、で相当暮らしが変わると思うよね。

 

火って、ものすごくコミュニケーションが必要だよね。

常にシグナルを出してくるし、その気持ちを理解して、ちょっと動かすだけで、ちょっと手を加えるだけで、ちょっと風をとめるだけで、ぼーっと燃える時もあるし、風を止めたいたものを動かすだけで、ぶわーーと息吹き返すこともある。

 

何か大切なシグナルを見落としていると、大切にし忘れていると、もう、スーッと、鎮火してしまうし、まるで生き物みたいなところあるよね。そういう意味で言うと、火と対話できるというのは、絶対必要なこと。

 

食べ物は、食べなくても結構生きていられるし、ましてや水を飲めたら、実は、あんまり問題でない。自分は「サンダンス」してるけど、四日間、食べずに踊り続けるということは、そんなに困難なことじゃない。飲まないことはつらいけどね・・・。だから、食べないことはそんなに心配ではなくて、サバイバルの状況において、食べ物より先に優先することが実はある。

 

 

「世界中の人が自分の寝袋を持つ」ということ

 

トム・ブラウンが言ってたんやけど

世界中の全員の人が、自分の寝袋を持っているような時代になったら、その時がきたら、地球との関わり方やったりとか、生き方が変わる」って。

 

たぶんそのことで、環境へのインパクトが変わってくる。暮らしの中に、もっと地球と共に生きるマインドが入ってくる。「寝袋を持つ」ということは一つの象徴やと思う。「地球の近いところで生きる」という意味のね・・・。寝袋は、ちっちゃなシェルターやからね。もうそれだけで完結してるシェルター。繭みたいな。

 

いい寝袋が、必ずしも高価かどうかはわからへん。でもやっぱり、いい寝袋はそこそこ値段もするんじゃないかな。もしこれから子どもに買ってあげようと思うのなら、いい寝袋を買ってあげた方がいい。もし、大きすぎるなら足元をひもでしばったらいい。別に子どもだけじゃないな、おとなも、いい寝袋を持った方がいいなぁ・・・。

 

一つの基準としては、一般的に言う、スリーシーズン以上のもの。外気温がマイナス10度くらいでも耐えられるものがいいな。できたら、コンパクトなものが使いやすいから、ダウンがいいと思うね。一生ものとして使える。

 

ダウンの寝袋は、そんな簡単に濡れてしまわないけど、一度グシュグシュに濡れてしまうと(あまざらしの中で何日も野宿するようなことがあると)ショボーンぬれた鳥みたいになる。もしそうなったらいよいよあかん。なかなか、復活せーへんからから、ものすごく困る。でも、そんなにドボドボになることはめったにないから、ダウンはものすごく有効やと思うね。

 

一番いいのは、シュラフカバーをつければ、ぬれないで済む。シュラフカバーはすごくコンパクトだからね。

もしダウンに懸念があるんやったら、化繊でもいいと思う。化繊はぬれてもすぐ乾くし、ぬれててもまああったかい。

 

いいダウンの寝袋に、シュラフカバー(寝袋カバー)をつけるだけで、保温が10度分くらい、上がる。マイナス10度まで耐えられるやつが、マイナス20度まで耐えられるし、あまざらしになっても大丈夫やし、そんな寝袋もったらアウトドアで何かしたくなるよね。それ持って出かけたくなったり、野宿したくなったりね。

 

そうやって開かれた、地球や宇宙にバーンと開かれたところで、寝る経験をもつだけで、今まで漠然と持っていた恐怖感、不安感、というものはなくなる気がする。

 

人間が何でもコントロールできると思っている世界を出ると、そこにはもっと大きな力いるしさ、傲慢じゃなくなるんじゃない。一つの象徴的な運動として、みんなが寝袋もったらいいと思うよね。

 

第6回に続く

第4回「生きとったら大抵のことは何とかなる」

 


「生きとったら大抵のことは何とかなる」 松木正さん第4回インタビュー

 

 

サバイバルは、地球とのノン・バーバル・コミュニケーション

 

コミュニケーションできるということ、自然であったり、人間同士であったり、全てにおいて、コミュニケートできるということ、関わりあえるということ、そういうことが、全部サバイバル、この地球上で生きていくために、すごく大切なことと思うよね。

 

地球や自然からのメッセージは、いろんなサインやったり、一瞬現れるシグナルであったりして、非言語的なコミュニケーションやね。

 

サバイバルそのものは、挑んでいくものでもない。

 

トム・ブラウン(※)に出会う直前まで、それこそ「地球と対抗していく、というか、いろんな逆境に、負けないで超えていく」みたいな、その当時のアウトドアギアを最大に使ったアウトドアのプログラムの世界にいたけれども、ちっとも面白くなかった。何だか物が多すぎて不自由だった。

 

トム・ブラウンと出会ったときに、一番感じたのは、そうではない、ということ。彼は、サバイバルというのは、地球とのノン・バーバル・コミュニケーションや、と教えてくれた。

 

彼にとっては、地球は、自然は、楽園であり、自分の帰る家でもあるし、って言ってたけれども、まさに、そういう、地球や自然とフィットする、いい関わり方ができる、いいコミュニケーションができる、力が絶対的に必要なんちゃうかなと思うね。

 

※トム・ブラウン

7歳の時にアパッチ族の古老ストーキング・ウルフと出会い、10年間サバイバルやトラッキングやアウェアネスの技術を学ぶ。さらに10年間アメリカ国内を放浪し、原野の中で生き延びる技術を磨く。27歳の時に、行方不明者のトラッキングを依頼され、見事に探し出したことから名前が知られるようになる。書籍に「グランドファーザーが教えてくれたこと」「トラッカー」などがある。

 

 

もともと自然の営みの中に「壊れていく」ことは抱合されている

 

いつのときも、「大きな地球の心」みたいないものがあって、今いろいろ大変なことがおこっているかもしれへんけど、その大きな心の中でおこっているような気がするよね。そこへの絶大なる信頼というか、絶対的な信頼があると、そんなにいろんなことが、右往左往しなくても、いいような気がするよね。

 

我々が言うところの、「壊れていく」とか、「変化していく」ということは、もともと自然の営みの中に抱合されている。だから、刹那的に言っているわけではなくて、すべては諸行無常やねん。「常に」はないしさ、どんどんどんどん変化するんやと思うね。だから、いまあるものが壊れたら困ると思ってるから困るんやと思うのよね。

 

自然の中で生きていると、いろんなものに、太刀打ちできへんような大きな力はあるし、雨は止められへんし、風も止められへん。だけど、ちょっとコミュニケーション能力があると、それと仲良くはできるんだよね。

 

すべてのものはやっぱり壊れるんやと思うね。壊れないように、壊れないようにという生き方をしているよりも、壊れるもんやという前提、今あるものはなくなるんや、いつか。その前提で生きているかで全然違うんやと思う。

 

いまあるものがそのままであってほしいということは、人間の心の中にはあると思うけれども、それにあまりにも執着しすぎると、結局それが壊れないようにするために、逆に問題が生まれてくる、みたいな。そんな感じがするよね。

 

それやったら、自分自身のアウトフィット力を高め、より自然の一部になることの方が大事なんちゃうかなと思うよね。

 

 

「想定外のことがおこる」ということは、健全

 

やっぱり、通用せーへんということが大事なん違うか。自分の考えてる通りにはならへん。コントロールできないもんがあるんやという、絶大な大きな力、圧倒的な力がある、ということに、やっぱり今こそ目覚めたほうがいいんちゃうかなと。傲慢やと思う、そもそも。

 

本来的には、想定外のことがおこる、ということは、健全やと思う。逆にコントロールしすぎてきた。

 

それがいままでの全人類的なアイデンティティになってんやと思う。そのアイデンティティが壊れて、次のアイデンティティを持つための、移行期であるかもしれんな。大きな心で言うと。

 

「・・・しないような」っていう生き方は、「不安」からきてるよね、結局。

「不安」からの選択はちがうような気がするよね。やっぱり選択するのは「希望」からの選択でありたいし、やっぱり、自分はどうありたいのか、どう生きたいのかが大事。

 

そして、「どう生きたいか」、と思うことも大事やけど、そのことをどう「今」生きているのかということがすごい大事かなと。そのものをちゃんと生きてる。

 

自分の生きたい生き方を、今、どれくらい生きているのか、ということが一番大切な問いやと思うねん。

今、どれくらいのボリュームで生きているのか。

ちょっとだけ生きてるのか。

すげー生きてるのか。

まさに生きたい、そのものやという感じなのか。そこ。そこが大事。

 

 

地球のシグナルと対話する

 

いままで頼りにしていたことを頼りにしようとしているから、いろいろ難しいんちゃうやろか。そうじゃない頼りになるもんやったり、「こんなんあったんや」「すぐそばにあったんや」、みたいなことが結構本当はある。

 

つくるキャンプやウルフキャンプとかって、いいきっかけやと思うのよな。

つくるキャンプに参加すると、経験値としてさ、少なくとも、自分が自然のものだけでつくったのシェルターで寝てるやん。その経験があるだけでも、今ある生活環境が全部崩壊したとしても、ぜんぜん選択の仕方も変わるし、起こっている出来事に対して受け取り方もぜんぜん違うよね。そんな恐怖じゃないし、実はすげー快適、みたいな。こんなええもんが実はあったんや、みたいな。

 

もっと言うならば、地球で生きていくためのスキルというかな。サバイバル能力的なものやったりとか、先人たちがやってきたような知恵を、ちょっとでもちゃんと自分の中に身につけていると、それこそ、もっと快適になるに違いない・・・。

 

より地球に近いところで生きるような、地球と対話するような、地球や自然はいつもいろんなシグナルやいろんなメッセージを我々にくれるわけやから、そのことをちゃんとキャッチしながら、反応していくような、スキルやったり、あり方というものを身につけたら随分生きることが楽になると思うよね。それこそ、生きとったら大抵のことは何とかなるんちゃうかな。

 

 

第5回「世界中の人が自分の寝袋を持つ」

第3回「誰かとぶつかることで自分の存在を知る」

 


「誰かとぶつかることで自分の存在を知る」 松木正さん第3回インタビュー

 

反応、レスポンスが全然なかったら、自分の存在というか、存在感覚に乏しいことになるよね。いろんな講演会でも話しているように、だだっ広い部屋の中で、スタジアムみたいなものすごく大きなところで、自分がもし目隠しをした状態で、3時間4時間さまよっても、まったく何にも触れない、どうやっても触れない、手探りでいろんなものに触ろうとするんだけど、何にも触れなかったら、だんだん、自分のここに存在しているという感覚がなくなっていくよね。だけど、その3時間4時間さまよった後に、やっと壁に当たったり、たまたまそこに棒が立っていたり、パンと何かに触れた瞬間に、ポンとなんらかの反応が、返ってくる。

 

その瞬間に自分という存在が、ふわっとここにあったんやって。まさに自分がここに存在しているということに目覚めることが起こるよね。それがまさに、存在感覚やし、その存在しているという感覚と、それからちゃんと肯定されている、あるがままの自分でオッケーなんだよって、という感覚が両方備わっている感覚が、自己肯定感やね。

 

だからそういう意味で言うと、反応、レスポンスを返す、誰かしらという存在は絶対大事やね。一人で自分のことを自覚することが難しいからこそ、誰かとの関わり、誰かから反応が返ってくる、という相互性がとっても実は大事だよね。だから、子どもは、レスポンスが、つまりストロークという誰かからの働きかけが少ないと、悪いことしてでも、例えば掃除をしているお母さんの掃除機の上に乗って、「もうやめなさい」って言われても、反応がほしい。そうでないと自分が消えそうになるからね・・・。

 

 

 

・・・ついつい相手や子どものあるがままを受け入れ、そのまま返すのではなく、それは「わがままだ」、「甘えてるんじゃない」と返してしまいます・・・

 

「わがままや」というのは、自分の都合に合わへんから、「わがままや」っていうんじゃない?それって。なんでそのことを言っているのかという、その背景にあるところに寄り添ってないよね。裁いて、ジャッジしているということやんね。

 

例えばね、その子がわがまましたとするやん・・・。

でもね、その子が言ってることや、してることに対して、
「それはこれこれこういうことなの?」と訊いてみると
「そうじゃなくて、」「っていうか」って返ってきたりする。
そしたら、「そうやったんやね」ってなることがある。

 

だから、勝手に自分が相手のことをわがままにしてる時もあるんやと思う。

もしくは、ほんとうはうらやましくて・・・。

ほんとう自分がそんなことしたいくらいなんかもしれん・・・。

 

自分の中で、「甘える」という自分は周縁化(抑圧)されていて、そうしない、つまり「甘えない」ことがいいというアイデンティティで自分が成り立っているがゆえに、「甘える」という部分が、つまり自分が周縁化(抑圧)してきた部分が、影・シャドウとして、悪として映ってしまう。だから、イラっとしたり、そのことを受け入れられへんかったりする。

 

ほんとは、一番甘えたかったのかもしれん。けれども、それはいけないことだとジャッジされ、あるがままに甘えることが、その場、その時、都合がよくないと受け取って、それはダメなことにしたんやと思う。ダメなことだと決めたからやと思う。だからそのことは「悪だ」ということになって、受け入れられないんやと思う。それが割りとわがままと言われていることの一つかもしれん。

多くの甘え上手な子やったり、甘えている人にイラっとする親、女性、必ずしもではないがどちらかというと男性よりは女性、は結構いたりするよね。それは悪が相手に映るからやねん。ほんとはうやらましいくらいだと思う。なんらかの理由で、あるがままを表現できなかったんやと思う。本当はそのままの、わがのままで、オッケーやったはずなんやけど、それだと受け止めてもらわれへんから、条件付きなもので、それでもオッケーもらえるものを、ほしかったんやと思う。肯定されたいからね。そうでないと生きにくいもんね。
 

 

・・・どんな反応・レスポンスを返すことが望ましいでしょうか?・・・

 

いい反応を返さなあかん、と思うのよね、みんなね。そうするために、実は相手のあるがままをゆがめてしまう。その人が良かれと思ってやっていることが、意外と、相手がいま伝えたことをそのまま受けとめることにはならない。良かれと思って返してくれていることが、実はあんまり、その子、その人にとっては良からぬことかもしれん。


子どももおとなも、人がまず欲しいのは、自分のことがそのまま、受けとめられるということやね。そのままであるかどうかということは大事やから、そのまんま逆に返してほしいよね。つまり、「○○ちゃんは、こうなんだね」ということをちゃんと受け止めてもらっている感じ、これはカウンセリングでいう、反射というやつね。ちゃんと受け止めて、なおかつ、ちゃんと返ってくる。そのままリフレクトされる。「こういうことなんだね」って、そのまんま認められてる感じ。「それはこうじゃない、ああじゃない、こっちのがいいんじゃない」って解釈されたり、導かれる以上に、一回、ちゃんと受けとめてもらうということはすごく大事。

 

こういうことを意識しながら、こういう在り方を、とても大切にしていくことを、我々は【BE WITH】と称していて、それは、人との関わりの中で、もっとも重要なことの一つ。「すべては【BE WITH】に始まり、【BE WITH】に終わる」と言っているくらい、大事やと思うのよね。

 

 

第4回「生きとったら大抵のことは何とかなる」

第1回「人生は“切れる”ことから始まる」

第2回「自分のあるがままを話すことは”主体性”の始まり」

 


「自分のあるがままを話すことは”主体性”の始まり」 松木正さん第2回インタビュー

 

”あるがまま”でいられるということは大事やね。自己肯定感って、ある意味、あるがままでいられるということやもんね。

 

”あるがまま”であるというのは、とっても微妙な言葉で、我々は日頃、いろんな捉え方をして、この言葉を使ってるよね。「ある」というのは、たとえば、イノチの働きとして「ある」ものもあるよね。その人がその人になろうとして、とる行動やったり、そこで感じてることを表現したりというのは、あるがままのものやね。それをちゃんとある・ままに、そのまま受けとめてくれたり共感してくれたり、そのときに、【BE WITH】でそばにいてくれたりする人がいること。。。それはたぶんその人、その子があるがままでいられすごく大切なことやと思うのよね。



「甘える」ということはものすごく主体的な行動
 

誰もがすごい分離不安を抱えているわけやから、ちっちゃな子はそれを甘えるという行為をもって不安を安心に変えようとする。「甘える」ということはものすごく主体的な行動やと思うのよね。特にちっちゃな子どもたち、赤ちゃんとか、幼児期の子たちが、それから小学校3、4年生くらいの低学年の子どもたちが、ほんとに主体的にできることの一つとして、代表的なのが、「甘える」ということ。

 

「甘える」というのは、甘えたいときに甘えるということ。なんかしら不安になったり、なんかしら分離感が、ふっと、子どもの中によぎるというか、感覚として持つ。それが環境の変化やったりとか、今日何かがあったりして、何となく子どもに分離感が戻ってくる、そのときに、べたべたしたかったり、おかあさんといっしょにいてほしかったり、っていうような、甘えの行動をとるんやと思うのね。

 

 



「甘やかす」は、おとなの都合

 

そのときに、つまり主体的に甘えようとしたときに、ちゃんと甘えられる。「甘やかす」じゃなくて、子どもが甘えたいときに、甘えられる。「甘やかす」は、親の都合やし、おとなの都合やよね。だけど、甘えたいときに、甘えるというのは、子どもの都合やし、すごく主体的なことで、あるがままのこと。だって、不安があるんやもん。そのことがちゃんと受け入れられ、共感されたり、何よりも一緒にいてくれるということ。心ごと一緒にいてくれてること。甘えてる自分はだめと言われるのではなくて、甘えてるまんまで、そのことに関心持っていてくれてること。

 

子どもが甘えてきたときに、「どうしたん?」「なんかあったん?」って聞くと、「ううん、別に」って子どもは言うかもしれんけど、「ふーん、変な子やな」と言いながらもちゃんと一緒にいる。またべたべたする。「どうしたん? なんかあったんやろ?」って言いながら、そのときのその感じがすごく受容的で一緒にいてくれる感じがする。そういう意味では、言葉の内容というよりは、言葉のもっているエネルギーが、ほんとに一緒にいてくれる感じがする。こういうものの一つ一つが、自己肯定感を育んだり、その子に安心を与える。

 

このあるがままでいる自分、いまこういう状態でいる自分をちゃんと受け止めてくれている。そのことが、自己肯定感、つまり、存在していいんだ、という安心感を生んでいく。存在そのものでオッケーなんだということ、あなたの存在そのものが、大事なのよ、お母さんは好きなのよ、あなたがいてくれて嬉しいのよって。そのことが、ちゃんと相手に伝わっていること。子どもに伝わっていること。それが肯定されているということやし、自己肯定感につながる一番のポイントやと思うのよね。存在していいんだという安心感やね。こういう自分だったらオッケーではなくて、あるがままでオッケー、この感覚やと思うのよね。

 

 

甘えたいときに、ちゃんと甘えた子だけが、自立できる

 

甘えて、ちゃんと愛情がみたされて、「私は存在していいんだ」という安心感をもって、自分の心の中に、ある種のプラス貯金をする。貯金箱の中が満腹にならないと、こどもは安心して、親から離れていかないな。だからちゃんと甘えたいときに甘えられた子が、ほんとの意味で自立していく。

 

自立によく似た言葉は孤立だよね。なんでも全部自分でやってしまうみたいな。本当は苦しくて、もう無理なことなのに、そのことを言えない。助けてって言えへん。でも、本当に自立している人は、何かあったときは、助けてって言えるし、そして、誰かに対してヘルプの手を差し出すこともできる。それは自分の中にもともとの原形の体験があるからやよね。たぶんちゃんと甘えた歴史があるんやと思う。

 

 

ヘルプメッセージを出せるようになって初めて人は自立している

 

自分が初めてリザベーション、インディアン居留区に行ったときに、アンクル・ロイから言われたことがある。「ちゃんとヘルプメッセージを出せるようになって初めて人は自立しているんだ」と。助けを求めるということは、甘えるということ、ある意味ね。だって、無理なわけやから。無理な時には助けてもらわなあかんわけやから、これって甘えることやんねえ。

 

・・・なかなか、「助けて」って言いだせない、もしくは助けを求めることすら自覚できない場合もあると思うのですが、どうしたらいいでしょうか?・・・

 

だから、ヘルプメッセージを出せることがどれだけ大切なことかということを知ってる、おとなの中でも、いわゆる「エルダーシップ」が必要なんやと思う。「ティオシパイェ」(拡大家族)の中でも、ちょっとエルダー(年長者、長老)的な、そういう知恵を持っていたり、そういう風な人の育ちの事を、人が育まれていくプロセスの事を知ってる、まずおとなが、やっぱり育ってるということ。

 

「甘えていいんやで」ということを、同世代の人から言われるのではなくて、いろんな人生を経験してきた人から言われて、「ああ、そうなんか、それでもいいかな」「でもわたし、すごくへたくそやわ」と思ったときに、たぶん初めていろんな人に、話を聞いてもらったり、ちょっとずつやけど、「大丈夫なんやろか」「こんなこと言うたら、おかしい人と思われへんやろか」と、たぶん探り探りやと思うし、ちょっとずつ人のことを信頼しつつ、身をゆだねてみようかな、って思いながら、人に話をきいてもらったり、それから、何よりも、自分のために時間を割いてもらったりする。

 

それすら最初できひんよね、だって悪いしって。自分のために、時間を割いてもらうって、それも甘えることやね。時間を割いてくれるということと、自分の価値ってすごく関係あるんじゃない。自分のためにその時間をくれるんやから。だから、そこからまず始まるんと違うかな。まず、一緒にいてくれるということ。そして、なおかつ、そのときに、ちゃんと受け止めてもらったり、その人の話を聞かされるのではなくて、私の方の世界にちゃんと入ってきてくれて、そばに寄り添ってくれて、共感してもらいながら一緒にいられる。そういう存在が必要やし、そういう時間、体験が必要やと思うのよね、やっぱりね。

 

第3回「誰かとぶつかることで自分の存在を知る」

第1回「人生は“切れる”ことから始まる」

 


「人生は“切れる”ことから始まる」 松木正さん第1回インタビュー

 

生命(いのち)の働きというのは、その人にしかない人生を形作っていく、エッセンスのようなものがたぶん一人一人の生命の中にあって、その人らしい、その人にしかない人生を形作っていこうとする。それはすごく創造的な力。そのエッセンスはそのように人生を形作っていくし、出会いを生み出していく。そこでいろんな出来事を経験させる。それはエッセンスの成せる技、と思うのよね。

我々の中には、エッセンスがあるし、それは、「種」のようなものかもしれん。もとになるもの。と考えたら、その生命の働きに従って、一人一人は、どんどん自分になっていく「木」「樹木」ということ。つまり、一人一人はみんな、生命の木。生命の働きに従って、その人になっていく、その人の人生を形作っていく木。だから木の形は、まさにその人の人生そのものを表している

その始まりは、そもそも親木の生命の木から分離した、つまり、落ちたというところ。生命の始まりは分離やと思うのよね。種は、必ず元々は、親木から落ちたことが始まりやから、「切れる」ことが、全ての生命の働きが起動を始める一番最初なんやね。そして、落ちた種が最初に誰に教わらなくてもすることが、大地に根をおろすということ。芽を出すんじゃなくて、先に根をおろすということがすごく意味深いことだよね。

大地の母に根をおろすということは、大地を信頼し、そして大地に抱かれるということ。とっても母性的なものの中に、安心して根をおろすということ。根をおろすから、上に伸びていくことができるのよね。その人がその人になっていく、どんどんその人の人生を表現していくのは、枝葉を伸ばしていく、つまり外界に自分を表現していくということやけども、外に広がっていこうと思うと、その分だけ、根っこが中に広く広がっていないとあかんから、この上の部分と、地面から下の部分のバランスはすごく大事や。

根をおろすということと根を張るということ、ある種の大地との信頼でもあるよね。そのことなしに、その木になっていくということはない、ということやと思うのよね。その根っこの張り具合、根をおろすことやったり、根を張っている様子、これが豊かであるということが、自己肯定感が育まれている様子と考えられるよね。

人は誰しも「分離不安」を抱えている


赤ちゃんは、ある種の不安がいっぱいだよね。「分離不安」という、お母さんのお腹から生まれてきて、要はへその緒が切れたときの切れた感がものすごく強い。生まれるときに破水して生まれてきて、いろんな音も聞こえてくるし、たぶん、いろんなものも動いているし、いままで完全に羊水で守られている状態から、守られていない状態、水がなくなるわけやし、音からも守られていない、衝撃からも守られていない状態になったときに、ものすごく恐怖を感じたはずや。

 

人によっては、この大きなエネルギー、このすごく恐ろしい感覚と、この分離した時のこの不安感を総称として、ある種の外傷体験として、バーストラウマというのよね。赤ちゃんはこのすごく大きな不安、不安という大きなエネルギーをいつも抱えていて、すぐ不安になって親を求める。だから、自分を不安な状態から、ある種の恐怖感から、すぐ安心に、安全にちゃんと移行させてくれる、特別な人が必要やと思うのよね。


誰でもいいんじゃなくて、とっても愛着を感じる人。愛着を感じるということは、誰でもいいというじゃないよね。愛着関係は、不安を安心に変えてくれるし、危険だと思ったものを安全にしてくれるし、不快だと思っているものを、ちゃんと心地よい状態に変えてくれる、という特別な人がやっぱり必要やと思うのよね。その人がまずいてくれるということが大事やと思う。それがまさに、【BE WITH】という、ともにいてくれる人で、そこから育まれ始まるのが自己肯定感かと思うのよね。

 


・・・親と愛着形成がしっかりできていればいいですけれど、もともと親がいないというケースもあれば、なかなか親との愛着形成が難しいという場合もあると思うのですが・・・

望ましいのは、自分の実の親が愛着者になるということ、親と愛着形成ができるということが一番と思うのよね、やっぱり。特に望ましいのは母親やと思う。父親にも母性はあるし、だから父親で代行するというケースもあるかもしれない。けれども、母親から生まれてきたことは確かやし、逆に言ったら母というのはそのくらいかけがえのない存在やと思うのよね。だから母に育ててもらうということ、ちゃんと母が母の機能を果たすということほんとは大事なことと思う。

だけど、必ずしもそうやって親に恵まれて、恵まれた環境、恵まれた状態でない場合もあるよね、やっぱりね。そのときには、誰かしら、その人に親に代わる、愛着者、誰か特別な人は必要だよね。その方が望ましいかもしれんよね。もし、それがだめやとしたら、何人かの人で代行するということが必要かもしれんし、みんなで分担するということも必要かもしれんよね、本当はね。

そうやって考えると、ある種の、親子という血縁関係でない、われわれがよく使うような「ティオシパイェ」という拡大した家族、つまり親のような母親のような人がいたり、父親のような人がいたり、おじさん的な人がいたり、グランパみたいな、おじいちゃん的な人がいたりという、もしかしたら家族という血縁関係の枠組みでない、何かが、いま必要かもしれんよね。

 

第2回に続く →自分のあるがままを話すことは「主体性」の始まり

 

 


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